梅雨真っ盛りの沖縄弾丸一人旅

今回沖縄に行くことになった経緯と感想を書き留めて置かなければと、存在さえ忘れかけていたブログを開いた。

話は遡るのだが、2年前、私は人生で三度目にして最大のどん底を経験し生死を彷徨った。今でもその地獄は続いているのだけれど、何とかその時
助けて貰った命の恩人が何人か備えられていたお陰で今も何とか生き延びている。

具体的に何が起こったのかは今は、書けないが、「人は、こういうときに死ぬのだな。」とこの国ではよくある死として片付けられてしまう事の空恐ろしさを感じた。しかし私は死ぬわけにはいかないと思った。私は母親なのだから。まだ、死ねない。それにここで死んだら相手の思う壺だ。

兎に角私はありとあらゆる人に助けを求め、話を聞いて貰った。伝道所の人、看護師の友人、高校や中学時代の友人まで。東京や大阪、和歌山、岐阜、三重。中には20年以上前に一度しか会った事がなく、連絡を取りさえしていなかったのに、凍りついた心で涙さえ出ない私の代わりに「なんでいづみちゃんがそんな目に合うの。」と泣いてくれた人もいた。本当に辛い時って、泣けない。ただ、生きている実感が無く自分を上から見ているような(精神医学では解離障害という)感覚になって、何も出来なくなる。しかし、そんな時に手を差し伸べ味方になってくれた人とそうでない人とは結構明暗が別れて、傷つきもしたけれど、これから私が大切にすべき人がはっきりと分かった事は、今後の人生において良かったと思っている。


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大阪の友人宅にお世話になっている時に、生前の父を知る方が居て、何故か毎年のように、ANA株主優待券をくださり、私を沖縄の辺野古基地反対の運動をしている、

島しづ子牧師のところヘ行くようにとご好意をくださっていた。しかしタイミングが合わず、5月末で有効期限が切れる事に対する罪悪感と、急に三連休が出来た時「それは最初で最後になるかもね!」という先輩の言葉に背中を押され、島牧師に連絡する事にした。

また、以前はコロナウイルスで誰かを招く事に慎重だった

島先生が、「早くみんな来てくれないとおばあちゃんになっちゃう!」と言ってるらしいという噂を聞いて(人は自分の事を「おばあちゃん」と認めた時に「おばあちゃん」になるのかもしれないと妙に納得しつつ)連絡を入れると、あっさりOKして下さった。

しかし、ANAの優待券よりもはるかに今は、格安チケットが有ることを教え貰って、「有効期限は関係ないのだから、何も梅雨の沖縄にわざわざ行かなくても」という考えが頭をかすめたが、ここまで来たら引けなくなって、梅雨真っ盛りの沖縄弾丸ツアーを決行する事になった。

それに辺野古基地に反対する人達に会ってみたいというのは、ずっと心にあった。それは、圧倒的理不尽と圧倒的な力を前に、無力さと挫折の繰り返しである事が分かっていながら、何処からそのようなパワーが出て来るかを知りたかったからだ。

私なんてただ生きてるというだけで青色吐息だというのに。

島しづ子牧師は、若い頃3人目のお子さんががお腹に居るときに同じく牧師である夫を亡くされた上に、3人目のお子さんが百日咳の後遺症で重度心身障害者になられ、それから教会を引き継ぐために牧師の資格を取り(その頃は伝道師だった)障害を持ったお母さん達とつながり、今でいうデイサービスやショートステイ等の施設やグループを立ち上げ、その間牧師の仕事や執筆やその活動は余りにも多岐に渡るので把握しきれない程である。(詳しくは「尊敬のまなざし」という本を読んで貰いたい)

それも70歳であっさり息子達へ自分築いた障害者NPO法人と伝道所を譲り、さっさと沖縄ヘ移住し辺野古の運動のために船の免許を取り、毎週のように海に出ている。そして、その辺野古の海の絵を描いて展覧会や絵葉書を作って資金集めに役立てておられる。しかも、沖縄の伝道所の牧師をしながらというのだから、島先生のバイタリティーは一体どうなっているのだろうかと思う。牧師の仕事といのは(違ってたらごめんなさいm(_ _;)m)

簡単に言うと週刊誌の漫画家のようなものだと思う。毎週日曜日に締め切りがあって、それに原稿を間に合わせないといけない。それは、毎回違うネタが必要なので、本を読んだり聖書の勉強をしたり、今起こっている社会情勢を知るためのあらゆる情報をインプットしておきつつ、そこから聖書が現代に語る真意のような物を探りあて、説教準備をする。日曜日は本番だ。その他にも、信者さんのお見舞いや牧師同士の会議や祈祷会、色々な人の電話や手紙の対応やいきなりの訪問者への対応もしなくてはならない。(他にも幼稚園があったり社会活動をしていたり色々あると思うけど、個人差が大きいようにも思う。)普通なら秘書と事務員を一人ずつ雇っても良いくらいだ。

それも、ほぼボランティアのような賃金で。

話が逸れたので話を沖縄に戻すことにする。

那覇空港に着くと、天気予報通りの雨で、海も空もどんより曇っていた。(雨女の私らしいな)と思いつつ、島先生を待っている間に食べたソウキ蕎麦は本土のものとは出汁が違っていて美味しかった。

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店で流れるBGMの三線の音楽を聴きながら

沖縄戦で「米兵に捕まって捕虜になるくらいなら死ね。」と日本兵に教えられて、親が愛する子どもを殺さなければならなかったり、ガマの中でお互いに殺し合ったりする中で、白旗を揚げて出て来る少女の映像を思い出していた。(どうしてあの少女はあのような行動を取れたのだろう)

空港まで迎えに来てくださった島先生に

「あなた一番悪い時期に来たわね!」と言われて、「ですよね~笑」と苦笑する。でも、タイミングが合って、事がトントン拍子に運ぶ時は取り敢えず、乗っかる事にしている。ダメならどうせストップかかるしって。(そのせいで失敗も多いのだけれど。)「やらずの後悔」より「やって後悔」した方がマシだと思うから。(戦争や人を傷つける事は別だけど。)

3日間島しづ子牧師のお宅(うぶさと伝道所)にお世話になり、「情熱大陸」の密着取材する記者のような気分でご一緒した。

「この時期は何でもカビるの!喪服がカビたのには参ったわよ!」と島先生が運転するプリウスに乗りながら、南国とは思えない寒い沖縄の風とモコモコした深い緑のジャングルを車から眺めつつ、自分が沖縄に居ることの不思議な感覚を味わっていた。

「遠いと思っていたけど、案外来ようと思えば簡単に来れるんだな。」


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つづく