お知らせは忘れた頃に

先程の出来事。次の日曜日は忙しい為に近くの公民館ヘ愛知県知事選挙の期日前投票に行った。投票を終えてほっとして車に乗り込もうとしたときである。いつものように運転席のドアを開けて鞄を助手席においた瞬間だった。車のドアを閉めようとしたら、ドアが閉まらない、よく見るとドアが全開になって隣の車に当たってしまっているではないか!強風でドアが瞬時に開いてしまったようだった。

案の定隣の車に私の車の塗装が付いてしまっている。やってしまった!

隣の車の女性は電話をしており、振り返って怒った口調で「ちょっと待ってて下さい!」と言われたので、観念した私は「なんてついてないんだ!期日前投票なんて来るんじゃなかった!(←そこじゃないw)」大人しく彼女の電話が終わるのを待っていた。そして、出てきたちょっとヤンママ風での女性が「傷どれですか?」と言うので、ビビりながら、ちょぴっとだけ私の青い車の塗装がついているところを指指して「ここです。すみません。あの保険で直します。」というと、彼女は「何とかしてくれるなら何でも良いよ。」とキレ気味に言ったので、「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」と言って、急いで保険屋さんやいつもお世話になってる車屋さんに電話したが何処も繋がらず。絶対絶命ピンチ!神様どうしていつも私は悪いことばかりにあうの?と内心神様に抗議しながら、主人公がいつもやらかしてムンクの叫びのマネをするクリスマスの映画を思い出していた。

取り敢えず、メモに自分の電話番号となじみの車屋さんの名前と電話番号を書いたメモを渡して、「今日は車屋さんがお休みのようで、近いうちにこちらに行って直して貰えますか?電話しておきますので。」と言ったら「そこまでいかなきゃダメなの?それ何処なの?」「〇〇町にあります。」「てか私車の工場で働いているんだよね。」と言われ、(あーぼったくられるやつかー)と思いつつ、「ではそちらで直して頂いてお金を請求してください。保険で支払うか実費で支払うかは金額で決めますので。」というと、「てかさ、正直元々綺麗な車じゃないし、これぐらいだったらさ、削ったら多分直ぐ取れると思う。」「そうですか。ではそちらでかかった料金を請求してください。」「こんなんさ、正直お金取れないよ。」「え!!」

(じゃあ、どうすれば良いの?どうすれば許して貰えるの?土下座でもすれば良いの?指とか落とされるの?まさか売り飛ばされる?)と内心半泣き状態になっていると、「今どき知らない人に電話番号渡すのとか怖いでしょ?今回は別に良いよ。後で何処かが痛いとかも言わないし。」え?「でも、それでは申し訳無いので、手間賃をお支払い致します。」「良いよ。これぐらいなら。待ってって言ったのは、電話しててどういう状況かわかんなかっただけだから。元々綺麗な車じゃないし。大した傷じゃないし。」(まじで!?良いの!?ぼったくらないの!?めっちゃ切れてたのに!?電話で怖い旦那さん呼んでたんじゃないの?指落とされない?外国に売り飛ばされない?)

と困惑しながら、私は「すみませんでした!ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。そして、さっきまで抗議していた神様に「ありがとうございます!さっきはごめんなさい!もし、私に同じような事をした人がいれば私も許します!」と叫んでいた。

そして、改めて許されるという事について思いを巡らせていた。

人は自分が間違いをした時に許されるという体験をしなければ、人を許す事は出来ないのだな。そもそも、生きていて誰にも迷惑をかけずに生きるなどというのは不可能だし、誰だって失敗はするものだ。自分は今までなんと傲慢だったんだろう。多くの罪を犯しながら、沢山の命を頂きながら、貪欲に生きていた。自分が正しいと周りの間違いに腹を立てていた。まさに聖書にある「自分についてる丸太に気が付かずに他人のおがくずを取り払おうとしていた」のだ。神様ごめんなさい。そして、ありがとうございます。こうして、いつも間違った道に行こうとするときにお知らせが来て、分からせてくれる。

でも、それも直ぐに忘れちゃっての繰り返しなんだけど。いつも同じところぐるぐるしてるなー。とりあえず、期日前投票行ってよかった!←単純

そして、車のドアは開けたその手で直ぐに締めましょう!

複雑さと曖昧さに耐える

最近、実家同然の如くどっぷりお世話になっている老夫婦のお家で、夕食後何時ものようにまったりしていると、天井裏でガリガリという物音がした。どうやら、長年ネズミが住みついているのだという。その時動物を飼う話題をしてたので、私が笑いながら「猫でも飼えば良いのでは?」と提案すると「私達はもう老い先短いから動物は飼えないのよ。」とやけに現実的な答えが帰ってきたと思うと、奥さんの方が徐ろに箒の柄の先で天井をドンドンと叩き出したのだ。私はあっけに取られて「何してるの?そんな事して意味あるの?」と聞くと「意味ないけど、悔しいじゃない!人間が住んでるっていうのにこんな早い時間からゴソゴソして。こうすると私の気が晴れるの!」というのだ。「そ、そうなんだね。」と答えたが、何ともその不合理な行動が理解出来ず、じゃあ、ネズミが住みついていることに対して不快には感じているのか?と問うと不快に感じてはいるという。でも、特に時々天井を箒の柄でドンドンするだけで何も対策していないのだという。私は「それでは何の解決もしていないではないか!」と思った。私ならすぐさま、スマフォでググるのに「ネズミ駆除」と。そして、その場で業者に連絡するだろう。

しかし、その時、ふと先の大戦の戦後処理の際、中国が日本に賠償金を求めなかったり、尖閣諸島問題をお互い不問とすることで、今日まで両国間で平和と経済を維持し繁栄する事が出来たという話を思い出した。

もしかしたら、何でもかんでも合理的に考える事が必ずしも良いとは限らないのかもしれない。と、考え直した。

そういえば、日本には昔多くの狼が居たが、家畜を食べたり人を襲うので明治時代に徹底的に「駆逐」されて絶滅してしまった。そして、その結果食物連鎖のバランスが崩れてしまい、鹿が増えすぎて畑を荒らしてしまったり、森が荒廃したりした。しかし、そんな森に再び狼を放すと豊かな自然が戻ったという例もあるという。世界や自然は色んな事が絡みあって、複雑で、未知で、絶妙な表や裏の事情やパワーバランスがある。だからこそ、世の中が一方方向に強引に進んでいると感じると凄く違和感を感じるし、天邪鬼になってしまう自分がいる。

しかし、そんな私もついつい「こうすれば一発で解決!」という手を使いたくなる。だって、色々な事情を知ったり調べたり考えたりするのはとても面倒臭くて、骨が折れるし、何よりコスパが悪いではないか。でも、きっとそういう考え方が戦争に繋がってしまうのだろう。もっと複雑で曖昧な事を受け入れる忍耐力が必要だ。

そうそう、戦争といえば沖縄から帰ってからずっと気になっていた「白旗の少女」の本を読んだ。(漫画だけど笑)どうして6歳の少女が家族と別れて生き残れたのか。それは、彼女の父親が亡くなる前に「私がいなくなったら、各自自分の頭で考えて判断し、行動するように。」と言ったこと。そして「人の真似をせず、独りぼっちになることを恐れないこと」という言葉によものが大きい事を知った。

まだまだ、この世の中は知らないことばかりで、出来るだけ知り尽くしたいという気持ちはあるのだけれど、全てを知る事は出来ないし、自分の理解力の限界も感じるし、人だから間違うこともある。というか、私は間違ってばかりだ。

でも、最後は自分の直感を信じて一歩ずつ進むしかない。独りぼっちを恐れずに。

TRY&ERROR!

この文章を書いてる際、ちょっと前に流行った曲の歌詞を思い出したので、合わせて載せておきます。そしてfukase君はやっぱり天才だと思う。

 


Habit

歌:SEKAI NO OWARI

作詞:Fukase

作曲:Nakajin

君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
この世の中2種類の人間がいるとか言う君たちが標的
持ってるヤツとモテないやつとか
ちゃんとやるヤツとヤッてないヤツとか

隠キャ陽キャ
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
気付かない本能の外側を
覗いていかない? 気分が乗らない?

つまり それは そんな シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニカ

例えば持ってるのに出せないヤツ
やってるのにイケないヤツ
持ってるのに悟ったふりして
スカしてるうちに不安になっちゃったりするヤツ

所詮アンタはギフテッド
アタシは普通の主婦ですと
それは良いでしょう? 素晴らしいでしょう?
不可能の証明の完成なんじゃない?

夢を持てなんて言ってない
そんな無責任になりはしない
ただその習性に喰われないで
そんなHabit捨てる度 見えてくる君の価値

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit

大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど
説教するってぶっちゃけ快楽
酒の肴にすりゃもう傑作
でもって君も進むキッカケになりゃ

そりゃそれでWin-Winじゃん?
こりゃこれで残念じゃん
そもそもそれって君次第だし
その後なんか俺興味ないわけ

この先君はどうしたい?
ってヒトに問われる事自体
終わりじゃないと信じたいけど
そーじゃなきゃかなり非常事態

君たちがその分類された
普通の箱で燻ってるからさ
俺は人生イージーモード
ずっとそこで眠っててアラサー

俺はそもそもスペックが低い
だから足掻いて足宛いて醜く吠えた
俺のあの頃を分類したら
誰の目から見ても明らか

すぐ世の中、金だとか、愛だとか、運だとか、縁だとか
なぜ2文字で片付けちゃうの

俺たちはもっと曖昧で
複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に君を分類する能力なんてない

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit

 

 

 

 

 

私達はどこに向かおうとしているのか

安倍元総理が銃撃されて、再びメデイアに出ることになった「統一教会」という団体名。宗教組織と言われるが、「オウム真理教」と並ぶ立派な詐欺犯罪組織だ。

犯人とされる男性は40代で私と同世代であり、しかも現場が奈良という事で、私は嫌でも父と自分の子どもの頃を思い出していた。

私は奈良女子大学の寮の真裏にある奈良教会という場所に幼稚園から中学一年生まで過ごした。

奈良公園が近くにあり、冬になると食べ物を探して、鹿が民家の前を平気で歩いていて、奈良ではその辺りに鹿が居ることは野良犬や烏が居ること同じように受け入れられていた。小さい頃は母と一緒に野菜や果物の皮を鹿にあげにいったりしていた。

奈良女子大の寮には大きな桑の木があって、近所の友達と一緒に塀に登って桑の実を食べたりしていた。裏には銭湯があって、友達と待ちあわせしてゆず湯の日は入りに行ったりリアカーでお豆腐屋さんが売りに来て、鍋やボールを持って買いに行ったり、今思えば、のんびりした地域、時代だったと思う。

しかし、それは表向きはのんびりしているようでいて、裏では様々な闇が忍び寄っていたのだと思わずにはいられない。

小学生の高学年頃だっただろうか、TVで桜田淳子合同結婚式等で統一教会が騒がれ出したのは。どうやら父も統一教会オウム真理教といったカルトに入信した家族からの依頼を受けて、救出活動に自分の家族そっちのけで取り組んでいたようだ。奈良女子大のサークルにも統一教会は潜んでいたようで、洗脳が解けたあとに教会に通っていたお姉さんに可愛がって貰った事もあった。父は休みは教会の説教で忙しいし、平日は疲れて寝ている姿しか思い出せない。そのうち糖尿病が悪化して入退院をするようになり、夫婦共々精神を病んで家族離散ヘ向かう。

同じ地域、同じ時代を生きた者として、私は犯人を全くの他人とは思う事が出来ない。統一教会等のカルト宗教にどれだけの家庭や将来を壊された人がいるのだろうか。

これが安倍元首相が目指した「美しい国」だ。人を騙して大儲けする裏で、声もなく泣いている人がいる。声もあげられず自分を責めて絶望し死を選ぶ人がいる。

その声にどれだけ耳を傾ける事が出来るだろうか。自分の居心地の良さが誰かの犠牲の上に成り立っていないだろうか。

あれだけ国民には財源がないと言いながら、国会議員の所得の高さは問題にされず、生活保護の人ばかり叩く。国をあげての弱い者苛めが常習化している。

私達はいつまで悪夢をみせられるのだろうか。安倍元首相が国葬だなんて、いいかげんにしてほしい。いつまで、甘い汁を吸うハイエナ達を甘やかせば気がすむのか。

そして、「また騙された!」って叫んだり、「一億総懺悔」でもするのかな。

原爆が落とされて、日本が焼け野原になった時のように。

「この国は何でもある。ただ『希望』だけがない。」という村上龍の小説の一節を思い出した。

希望はあると信じたい。

パンドラの箱の一番最後に。

梅雨真っ盛りの沖縄弾丸一人旅

今回沖縄に行くことになった経緯と感想を書き留めて置かなければと、存在さえ忘れかけていたブログを開いた。

話は遡るのだが、2年前、私は人生で三度目にして最大のどん底を経験し生死を彷徨った。今でもその地獄は続いているのだけれど、何とかその時
助けて貰った命の恩人が何人か備えられていたお陰で今も何とか生き延びている。

具体的に何が起こったのかは今は、書けないが、「人は、こういうときに死ぬのだな。」とこの国ではよくある死として片付けられてしまう事の空恐ろしさを感じた。しかし私は死ぬわけにはいかないと思った。私は母親なのだから。まだ、死ねない。それにここで死んだら相手の思う壺だ。

兎に角私はありとあらゆる人に助けを求め、話を聞いて貰った。伝道所の人、看護師の友人、高校や中学時代の友人まで。東京や大阪、和歌山、岐阜、三重。中には20年以上前に一度しか会った事がなく、連絡を取りさえしていなかったのに、凍りついた心で涙さえ出ない私の代わりに「なんでいづみちゃんがそんな目に合うの。」と泣いてくれた人もいた。本当に辛い時って、泣けない。ただ、生きている実感が無く自分を上から見ているような(精神医学では解離障害という)感覚になって、何も出来なくなる。しかし、そんな時に手を差し伸べ味方になってくれた人とそうでない人とは結構明暗が別れて、傷つきもしたけれど、これから私が大切にすべき人がはっきりと分かった事は、今後の人生において良かったと思っている。


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大阪の友人宅にお世話になっている時に、生前の父を知る方が居て、何故か毎年のように、ANA株主優待券をくださり、私を沖縄の辺野古基地反対の運動をしている、

島しづ子牧師のところヘ行くようにとご好意をくださっていた。しかしタイミングが合わず、5月末で有効期限が切れる事に対する罪悪感と、急に三連休が出来た時「それは最初で最後になるかもね!」という先輩の言葉に背中を押され、島牧師に連絡する事にした。

また、以前はコロナウイルスで誰かを招く事に慎重だった

島先生が、「早くみんな来てくれないとおばあちゃんになっちゃう!」と言ってるらしいという噂を聞いて(人は自分の事を「おばあちゃん」と認めた時に「おばあちゃん」になるのかもしれないと妙に納得しつつ)連絡を入れると、あっさりOKして下さった。

しかし、ANAの優待券よりもはるかに今は、格安チケットが有ることを教え貰って、「有効期限は関係ないのだから、何も梅雨の沖縄にわざわざ行かなくても」という考えが頭をかすめたが、ここまで来たら引けなくなって、梅雨真っ盛りの沖縄弾丸ツアーを決行する事になった。

それに辺野古基地に反対する人達に会ってみたいというのは、ずっと心にあった。それは、圧倒的理不尽と圧倒的な力を前に、無力さと挫折の繰り返しである事が分かっていながら、何処からそのようなパワーが出て来るかを知りたかったからだ。

私なんてただ生きてるというだけで青色吐息だというのに。

島しづ子牧師は、若い頃3人目のお子さんががお腹に居るときに同じく牧師である夫を亡くされた上に、3人目のお子さんが百日咳の後遺症で重度心身障害者になられ、それから教会を引き継ぐために牧師の資格を取り(その頃は伝道師だった)障害を持ったお母さん達とつながり、今でいうデイサービスやショートステイ等の施設やグループを立ち上げ、その間牧師の仕事や執筆やその活動は余りにも多岐に渡るので把握しきれない程である。(詳しくは「尊敬のまなざし」という本を読んで貰いたい)

それも70歳であっさり息子達へ自分築いた障害者NPO法人と伝道所を譲り、さっさと沖縄ヘ移住し辺野古の運動のために船の免許を取り、毎週のように海に出ている。そして、その辺野古の海の絵を描いて展覧会や絵葉書を作って資金集めに役立てておられる。しかも、沖縄の伝道所の牧師をしながらというのだから、島先生のバイタリティーは一体どうなっているのだろうかと思う。牧師の仕事といのは(違ってたらごめんなさいm(_ _;)m)

簡単に言うと週刊誌の漫画家のようなものだと思う。毎週日曜日に締め切りがあって、それに原稿を間に合わせないといけない。それは、毎回違うネタが必要なので、本を読んだり聖書の勉強をしたり、今起こっている社会情勢を知るためのあらゆる情報をインプットしておきつつ、そこから聖書が現代に語る真意のような物を探りあて、説教準備をする。日曜日は本番だ。その他にも、信者さんのお見舞いや牧師同士の会議や祈祷会、色々な人の電話や手紙の対応やいきなりの訪問者への対応もしなくてはならない。(他にも幼稚園があったり社会活動をしていたり色々あると思うけど、個人差が大きいようにも思う。)普通なら秘書と事務員を一人ずつ雇っても良いくらいだ。

それも、ほぼボランティアのような賃金で。

話が逸れたので話を沖縄に戻すことにする。

那覇空港に着くと、天気予報通りの雨で、海も空もどんより曇っていた。(雨女の私らしいな)と思いつつ、島先生を待っている間に食べたソウキ蕎麦は本土のものとは出汁が違っていて美味しかった。

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店で流れるBGMの三線の音楽を聴きながら

沖縄戦で「米兵に捕まって捕虜になるくらいなら死ね。」と日本兵に教えられて、親が愛する子どもを殺さなければならなかったり、ガマの中でお互いに殺し合ったりする中で、白旗を揚げて出て来る少女の映像を思い出していた。(どうしてあの少女はあのような行動を取れたのだろう)

空港まで迎えに来てくださった島先生に

「あなた一番悪い時期に来たわね!」と言われて、「ですよね~笑」と苦笑する。でも、タイミングが合って、事がトントン拍子に運ぶ時は取り敢えず、乗っかる事にしている。ダメならどうせストップかかるしって。(そのせいで失敗も多いのだけれど。)「やらずの後悔」より「やって後悔」した方がマシだと思うから。(戦争や人を傷つける事は別だけど。)

3日間島しづ子牧師のお宅(うぶさと伝道所)にお世話になり、「情熱大陸」の密着取材する記者のような気分でご一緒した。

「この時期は何でもカビるの!喪服がカビたのには参ったわよ!」と島先生が運転するプリウスに乗りながら、南国とは思えない寒い沖縄の風とモコモコした深い緑のジャングルを車から眺めつつ、自分が沖縄に居ることの不思議な感覚を味わっていた。

「遠いと思っていたけど、案外来ようと思えば簡単に来れるんだな。」


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つづく

 

 

頭が良くなりたい

私は人の名前が覚えられない。名前の頭文字が同じなら、ほぼ100%の確率で間違える。例えば山本さんと山田さんを間違えるという風に。これくらいなら、普通の人でもあると思うのだけれど、私の場合、全く違う人に全く違う名前で呼んでしまったりする。前の職場に加藤さんと林さんが居て全く似ていない二人なのに、加藤さんに林さんと呼び、林さんに加藤さんと良く呼んでしまっていた。初めの方は本人達も訂正してくれるのだけれど、もう途中から二人とも間違った名前でも返事をしてくれるので、一向に間違いが正されないままになってしまい、「果たして今の名前は合っていただろうか?」と後で不安になったりしていた。一度二人に「全然僕たち姿形も似てないし、名前も似ていないのに、どうして間違えるの?」と言われて、自分でも考えてみたのだけれど「多分(脳内の)同じ引き出しに入っちゃってて。」と答えたら「どんな引き出し?」と言われだので、「よくある名前」って答えたら、二人に「雑!!」と怒られてしまった。確かに私の脳内引き出しは非常に雑に出来ていると思った。脳内だけでなく、私は片付けとか整理がものすごく苦手で、でも部屋が散らかっているとイライラしてしまうので、「とりあえずの箱」というやつに何でも入れてしまって、見た目は割とスッキリしていても、必要な物が何処にあるか、さっぱり分からないので、夫とはいつも「〇〇知らない?」「場所決めといたら?」の会話をもう何十年と繰り返している。最近夫はもうそれさえも面倒くさくなったらしく、ただ「知らない。」としか答えてくれなくなった。(泣)でもね「場所を決めておいてもそこに置く事を忘れる場合はどうしたらいいの?」

まぁ、万事がそんな具合だから、しょっ中大事な物を失くすわけで、出かける前に家族で鍵や携帯の大捜索が始まるのである。出かけたら出かけたで、財布を忘れる始末で、この前なんか家族に「焼肉を奢ってあげる」と大見栄を切ったのに、財布を忘れて、結局夫がカードで払い、舌打ちされる始末。一時真剣に自分はADHDじゃないかと思い、会う人会う人に「私はADHDだと思うんだけど、どう思う?」と聞いて回り、看護師の友達にも一応「違うんじゃない?」と否定されたので、私は今もだだの「整理ができない、忘れっぽい、雑な人」止まりなのである。頭が良い人というのは、きちんと記憶の引き出しを細かく分類しラベルをつけて、何処にどの情報があるかを整理して、必要な時にすぐに取り出せる人だと思う。頭で分かっていても、なかなか出来ないのが痛いところだ。でも、学年トップの成績の娘(自慢?)も昨日「ナシゴレン」の事を「ピスタチオ」と言っていて(文字数しか合っていない!)ちょっと安心したのである。(遺伝?)あと「ピスタチオ」と聞いて「ナシゴレン」と分かる夫もなかなかだなと感心した次第である。

 

相手の立場に立つとは?

ついにやってしまった。患者さんの家に行くのに、携帯ナビを手にしているところを白バイに見つかってしまったのだ。はじめ夢中で横に居るなんて気が付かず。で、白バイが私の前を走って、振り返って目が合って。あ、私だよね?でも、今すぐ止まれないし。とりあえず、脇道にそれて停まろう。と思って脇道にそれたら。いきなりサイレン鳴らして猛スピードで追いかけてきた。止まって窓開けると、凄い勢いで「今逃げたよね⁇絶対今逃げたよね⁇」って。えー‼︎逃げてないし。危ないから脇道にそれただけやし。そもそも逃げるなら、猛スピードで逃げるよ⁇減速して停まってるやん⁇

「あのさ、反対の立場で考えてみて。絶対逃げたって思うから‼︎」私は何度も逃げたのでは無く、大通りで後ろに車がいるから、脇道にそれたこと、逃げたと思わせたなら、申し訳無かったと何度も謝ったけど、若い白バイのお兄さんは何度も警察の立場になって考えたら、どう見ても逃げたと思うと主張してきた。とにかく、訪問先に遅れることを連絡させてほしいと言うと、今度は「結局急いで携帯見て、違反して遅れて、自分が悪いんでしょ‼︎」と又怒られた。「そんなの分かってるわ!早く連絡させてよ。」とは言わなかったけど。そして、先方に遅れることを謝罪して、彼が書類を作成している間意気消沈してたら、流石に私の凹み具合を見てヤバイと思ったのか、

「ちょっと言い過ぎて悪かったけど、でもこっち(警察)の立場になって考えてみて」

と再度相手の立場になって考えることを強要してきた。

はー。よっぽど私は

「相手の立場になって考えることを相手に求める前に、まずは自分が相手の立場に立って考えてみたらどうですか⁇」

って言ってやりたかったけど、余計に遅くなりそうだったから、やめておいた。

力の強い立場の方が相手に自分の立場になって考えることを強要するってどうなんだろうね。

時々さ安倍政権を批判するとさ、

「でも、安倍さんも頑張っていると思うよ。」とかさ、「じゃあ、自分もやってみれば良い」とかさ、「社長の立場も大変」とか言うけどさ、本来相手の立場になって考える時っていうのはさ、一番立場が弱い人の側に立つべきなんじゃないのかなって思うんだよね。少なくても、強者が弱者に向かって、「俺の立場になって考えろっ」って言うのは違うと思うんだよね。親が子どもに「お前も親の立場になって考えろ」って言ったら、誰でも「あなたそれは酷ですよ。」って思うわけでさ。虐めてる方がいじめられてる子に「私の気持ち考えろっ」って言ったら変じゃない⁇

でも、世の中は結構こういう理不尽に溢れているわけだ。でも、まぁ事故して相手を傷つけた訳じゃないし、高い授業料だったと自分に言い聞かせながら、職場に帰ってもやっぱり納得行かず。同僚に聞いて貰ってちょっとスッキリしたけど。もちろん、携帯を手に持って運転していたのはいけなかったので反省はしてるけどね。痛い目合わないと、変われないこともあるから。でも、18000円と減点3点は痛いなー‼︎

去年の12月から3倍になったんだってさ。

流石に「シャーザクか!」とは言わなかったけどね。

 

 

これが最後になるかもしれない

今訪問している患者さんの中に、心不全や腎不全の疾患を抱えている患者さんがおり、

ある時採血の結果が良くないので、食生活を伺ったところ、ご本人は良かれと思って食べているものが自分の身体に負担をかけている可能性が高い事が分かった。(食事がおかず中心で塩分やタンパク質を取り過ぎている。果物の量が多く、カリウムが高い。水分も取りすぎだった。)

なので、私はできればご飯中心の食事にして、おかずや果物、水分を控えるように、具体的に説明した。本人も「良いと思って食べてたけど、いけなかったんだね。」と一旦は分かってくださっていたように思えた。

しかし、次訪問して食事内容を伺うと前と全く変わっていない事が分かった。(認知面はしっかりとされている)これはどうしたものかと思って、私では説得力に欠けるのかもしれないと思い、訪問栄養士さんにお願いしようかと、本人に勧めもしたが、断られてしまった。

そして、色々話ししている中でその方が

「私はもう十分生きたし、いつ死んでも良いと思っている。」とあっけらかんと言われた。

その方は旦那さんの介護をして、一年前に旦那さんを看取ることが出来たから、早く旦那さんのところに行きたいし、特に思い残すことはないというのだ。私は悩んだ末、

その患者さんの食事内容を変えることを一旦保留にして、体重が急激に増えたり、浮腫が増強しないかを見守ることにした。

人にとって、健康である事はかけがえのない事だし、命を大切にしなければいけない事は言うまでもない。

けれど、人にはどのように生きたいかは

自分で決めるという自由が与えられている。

健康で長生きする事はもちろん素晴らしい事だけれど、その人が何を大切に生きているかは

人によって違うのだ。そう思うと私に出来る事などほんのわずかしかない。

でも、一回一回の訪問では、もしかしたらこの訪問が最後になるかもしれないという気持ちを忘れずに、精一杯関わりたいと思う。

人の死はあまりにも突然で誰にも分からない。

動けるうちに会いたい人に会って、

やりたい事はやった方が良いと思う。 

今日も前回の訪問が最後になったという連絡が届いた。

それを私はただ受け止めるしかない。

出会えた事に感謝して。