お知らせは忘れた頃に

先程の出来事。次の日曜日は忙しい為に近くの公民館ヘ愛知県知事選挙の期日前投票に行った。投票を終えてほっとして車に乗り込もうとしたときである。いつものように運転席のドアを開けて鞄を助手席においた瞬間だった。車のドアを閉めようとしたら、ドアが閉まらない、よく見るとドアが全開になって隣の車に当たってしまっているではないか!強風でドアが瞬時に開いてしまったようだった。

案の定隣の車に私の車の塗装が付いてしまっている。やってしまった!

隣の車の女性は電話をしており、振り返って怒った口調で「ちょっと待ってて下さい!」と言われたので、観念した私は「なんてついてないんだ!期日前投票なんて来るんじゃなかった!(←そこじゃないw)」大人しく彼女の電話が終わるのを待っていた。そして、出てきたちょっとヤンママ風での女性が「傷どれですか?」と言うので、ビビりながら、ちょぴっとだけ私の青い車の塗装がついているところを指指して「ここです。すみません。あの保険で直します。」というと、彼女は「何とかしてくれるなら何でも良いよ。」とキレ気味に言ったので、「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」と言って、急いで保険屋さんやいつもお世話になってる車屋さんに電話したが何処も繋がらず。絶対絶命ピンチ!神様どうしていつも私は悪いことばかりにあうの?と内心神様に抗議しながら、主人公がいつもやらかしてムンクの叫びのマネをするクリスマスの映画を思い出していた。

取り敢えず、メモに自分の電話番号となじみの車屋さんの名前と電話番号を書いたメモを渡して、「今日は車屋さんがお休みのようで、近いうちにこちらに行って直して貰えますか?電話しておきますので。」と言ったら「そこまでいかなきゃダメなの?それ何処なの?」「〇〇町にあります。」「てか私車の工場で働いているんだよね。」と言われ、(あーぼったくられるやつかー)と思いつつ、「ではそちらで直して頂いてお金を請求してください。保険で支払うか実費で支払うかは金額で決めますので。」というと、「てかさ、正直元々綺麗な車じゃないし、これぐらいだったらさ、削ったら多分直ぐ取れると思う。」「そうですか。ではそちらでかかった料金を請求してください。」「こんなんさ、正直お金取れないよ。」「え!!」

(じゃあ、どうすれば良いの?どうすれば許して貰えるの?土下座でもすれば良いの?指とか落とされるの?まさか売り飛ばされる?)と内心半泣き状態になっていると、「今どき知らない人に電話番号渡すのとか怖いでしょ?今回は別に良いよ。後で何処かが痛いとかも言わないし。」え?「でも、それでは申し訳無いので、手間賃をお支払い致します。」「良いよ。これぐらいなら。待ってって言ったのは、電話しててどういう状況かわかんなかっただけだから。元々綺麗な車じゃないし。大した傷じゃないし。」(まじで!?良いの!?ぼったくらないの!?めっちゃ切れてたのに!?電話で怖い旦那さん呼んでたんじゃないの?指落とされない?外国に売り飛ばされない?)

と困惑しながら、私は「すみませんでした!ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。そして、さっきまで抗議していた神様に「ありがとうございます!さっきはごめんなさい!もし、私に同じような事をした人がいれば私も許します!」と叫んでいた。

そして、改めて許されるという事について思いを巡らせていた。

人は自分が間違いをした時に許されるという体験をしなければ、人を許す事は出来ないのだな。そもそも、生きていて誰にも迷惑をかけずに生きるなどというのは不可能だし、誰だって失敗はするものだ。自分は今までなんと傲慢だったんだろう。多くの罪を犯しながら、沢山の命を頂きながら、貪欲に生きていた。自分が正しいと周りの間違いに腹を立てていた。まさに聖書にある「自分についてる丸太に気が付かずに他人のおがくずを取り払おうとしていた」のだ。神様ごめんなさい。そして、ありがとうございます。こうして、いつも間違った道に行こうとするときにお知らせが来て、分からせてくれる。

でも、それも直ぐに忘れちゃっての繰り返しなんだけど。いつも同じところぐるぐるしてるなー。とりあえず、期日前投票行ってよかった!←単純

そして、車のドアは開けたその手で直ぐに締めましょう!