本当は

今知的障がい者の方のグループホームにも、処置のために訪問に行かせていただいているのだけれど、いつも何か忘れていた大切なものを思い出して、優しい気持ちになって帰ってくる。なんだろう、この打算のない純粋無垢な、それでいて無防備な心に触れた時、自分がいかに、薄汚れた存在なのだろうかと思い知らされる。

うちの上の子ども達は、歳が近いせいか、なにかとつまらない事で小競り合いをしているのだけれど、(例えば、どちらがタオルを畳む数が多いかとか、玄関の二つある鍵を自分は一つかけたから、お前ももう一つかけろとか)私自身もそれと似たような事を日々人と比べて、「やれあいつは得をしている」だとか、「自分はこんなにやっているのに」だとか、もうみっともないというか、ケチケチしているというか、人として醜い事この上ないのだ。私が、世の中の薄汚れた大人たちを見て、どうしようもない嫌悪感を抱くのも、自分の中に同じような醜さがあり、それを認めたくないせいなのだ。

もし、自分の中に同じような物がなければ、きっと、悲しいような憐れみの感情を抱くはずだから。

昨日を悔やんだり、明日を憂いたりもせず、無欲でただただ、今日与えられた命を精一杯生きている彼らのように生きる事ができたら。

そして、世の中の役に立つだとか、生産性がないだとか、お金をどれだけ稼いだとか、良い車に乗って、贅沢な暮らしをするという事も、

なんだか、虚しい事のように思えてくる。

本当は彼らのように生きたいのだ。

到底自分には無理だと思いながらも。