本当は
今知的障がい者の方のグループホームにも、処置のために訪問に行かせていただいているのだけれど、いつも何か忘れていた大切なものを思い出して、優しい気持ちになって帰ってくる。なんだろう、この打算のない純粋無垢な、それでいて無防備な心に触れた時、自分がいかに、薄汚れた存在なのだろうかと思い知らされる。
うちの上の子ども達は、歳が近いせいか、なにかとつまらない事で小競り合いをしているのだけれど、(例えば、どちらがタオルを畳む数が多いかとか、玄関の二つある鍵を自分は一つかけたから、お前ももう一つかけろとか)私自身もそれと似たような事を日々人と比べて、「やれあいつは得をしている」だとか、「自分はこんなにやっているのに」だとか、もうみっともないというか、ケチケチしているというか、人として醜い事この上ないのだ。私が、世の中の薄汚れた大人たちを見て、どうしようもない嫌悪感を抱くのも、自分の中に同じような醜さがあり、それを認めたくないせいなのだ。
もし、自分の中に同じような物がなければ、きっと、悲しいような憐れみの感情を抱くはずだから。
昨日を悔やんだり、明日を憂いたりもせず、無欲でただただ、今日与えられた命を精一杯生きている彼らのように生きる事ができたら。
そして、世の中の役に立つだとか、生産性がないだとか、お金をどれだけ稼いだとか、良い車に乗って、贅沢な暮らしをするという事も、
なんだか、虚しい事のように思えてくる。
本当は彼らのように生きたいのだ。
到底自分には無理だと思いながらも。
待ってくれているという事・待つという事
今日は娘の入学式で、校長先生も主任の先生も、新入生一人一人が入学することをとても心待ちにしていたという話をされた。先生だけでなく、2.3年生もとても楽しみにして待っていたのだという。
ただ、待つだけでなく、そのために色々と準備もして下さっていたのだろう。
その時私は、子どもが産まれる時の事を思い出した。私だけでなく、周りの人が、子どもが無事に産まれて来てくれる事を祈り、待ってくれていた。一番下の子の時なんかは、赤ちゃんが来る事を上の子がめちゃくちゃ楽しみにしていた。
普通待つという事は、自分では思い通りにならない事だから、辛く忍耐が必要で、短気な私なんかは待つ事がすごく苦手だ。
その為に今までどれだけ失敗してきたかわからない。
「慌てる乞食は貰いが少ない」という諺があるけれど、本当に待つ事さえ出来ていれば、どれほど人生が変わっていたかと思うくらいだ。
でも、希望さえあれば待つ事も苦ではなくなる。春が来る事を知っているから、厳しい冬の寒さも耐え忍ぶことが出来るというものだろう。
今、いつ終息するか分からない、先の見えない不安と閉塞感の中で、私達に求められているものは、待つという事なのかもしれない。
私達は一人一人が産まれる事を望まれて、待たれてきた存在だという事を思い出して。
希望をもって。
82年生まれ、キム・ジョンを読んで
「要らないよ。人が噛んで捨てたガムなんか。」
これは 私がこの本を読んで一番衝撃を受けた言葉である。主人公であるキム・ジョンがはじめての彼氏と別れた後、主人公に想いがあったサークルの先輩が、周りから好きなら応援するから、アタックすればと勧められた時に返した言葉だ。しかも、その先輩は普段はとても紳士的で親切な人なのだ。
この言葉を目にした時、ある歌詞を思い出した。
「ちょっとくらいの汚れ物ならば、残さずに全部食べてやる。」という、言わずも知れたミスチルの代表曲、「名もなき詩」の冒頭の歌詞だ。この歌詞の「汚れ物」とは何を指すのか、あまり深く考えた事もなかった。
しかし、何となく潜在的に汚れた=過去の男女関係とか欠点も受け入れてあげる、みたいな意味で、でも改めて考えると、この表現を果たして男性にもするだろうかとふと考えた時、私はカラオケでこの曲を歌いながらも、自分が男性目線で歌っていた事に気がついたのである。
男性に対して、果たして「人が噛んで捨てたガム」という表現をするだろうか。若しくは「汚れ物」というだろうか。男性はむしろ経験豊富な方が良いとされる風潮がないだろうか。
昔、男友達が友人の元彼女から告白された時にふったという時の話で、「あいつのお古は嫌。」みたいな言葉を耳にした事があるが
思えばそれも同じだったと気付かされた。
また、日本で不倫等が取りざたされる時、女性ばかりがバッシングされる印象が強い。男の浮気はしょうがないと許されても女の浮気は許されないと、ここぞとばかりに吊るし上げる風潮がないだろうか。
それは、女性は男性の所有者という認識が強いからだと思う。そして、若くて美しい女性、そして誰の手もつけられていない女性が、商品的価値が最も高いという認識が強いからではないか。
また、「女子力」という言葉も、男性から見ての「可愛くて、気が利いて、家事能力が高い」という意味であり、それに対する「男子力」という言葉は存在しない。日本社会でも、ありとあらゆる場面に、性差別が散りばめられているが、いちいちそんな事を気にしていては生きていけないという風潮だし、女性でさえそれを受け入れて、むしろ迎合している面があると思う。
この本は決して不幸な生い立ちの少女の話ではない。どちらかというと、恵まれた家庭に育ち、知的にも容姿にも恵まれ、相手を尊重し合う関係の恋愛をし、年収も性格も申し分ない相手と幸せな結婚をしている。そして、可愛い女の子を出産した。これだけ聞くと、何が不満なんだと言いたくなると思う。外から見れば女性としての幸せを全て手に入れているとも言える。もっと不幸な女性は五万といるだろう。
しかし、そんな恵まれた彼女でさえ、ただ女性であるというだけで、この社会にある見えないハードルや差別、偏見や無理解がキム・ジョンという1人の人間の健やかな心を蝕んでいく。これは、韓国社会の中の話だが、日本社会にも通ずるところが多々あり、むしろ、日本の方が問題が潜在的であるので、それが別段差別とも思わずに、受け入れてしまっていたり、目を背けている分、根は深いし、夜明けは遠い気がした。しかし、この本を一人でも多くの人が読めば、キム・ジョンに共感しない女性はいないだろう。そして、本当は男性にこそ読んで欲しいと切に願わずにはいられない。
少なくとも、私は今まで何に対して、傷つき怒っていたのか、自分でも気づいていなかった痛みさえも、この本は言語化して、痛みに寄り添ってくれており、一緒に戦おうと勇気をくれているのである。
最後に著者が日本の読者に向けての言葉の一節。「私は、誰も女性だからという理由で卑下や暴力の対象になってはならないと考えてきました。女性たちの人生が歪んだ形で陳列され、好き勝手に消費されていると感じました。
女として生きること。それに伴う挫折、疲労、恐怖感。とても平凡でよくあることだけれど、本来は、それらを当然のことのように受け入れてしまってはいけないのです。」
この本に出会えて良かった。
まだまだ、深く掘り下げたいけど、それはまた、別の機会に。
卒業式
コロナウィルスの影響で、突然の休校となり、危ぶまれた娘の卒業式も無事に開催することが出来た。出席者は全員マスク着用で、先生と卒業生と保護者だけの式だった。
子ども達はぶっつけ本番で、みんなで言う言葉のリレーなんかも紙を見ながら、時には詰まったり、止まったりもしたけどみんな一所懸命だったし、合唱もとっても心がこもっていて、素直な子ども達が眩しかった。練習なしの不安と緊張の中、精一杯頑張った卒業生一人ひとりに拍手を送りたい気持ちで一杯だった。
校長先生の話も一人ひとりを大切にする教育を目指して来られたのだろうと思われる内容で、この校長先生が居る学校に通う事が出来て本当に良かったと思え、先生方への感謝の気持ちで一杯になった。感動と感慨の中、子ども達一人ひとりが校長先生から卒業証書を受け取り退場していき、保護者だけが残された。そして担任の3人の先生が出てこられ、学年主任の先生が挨拶をされた。
「突然の休校で、子ども達にさせてあげたい事の半分もさせてあげられませんでした。いきなり、もう中学生だよって言われる、あの子達が可愛そうでなりません。
あの子達はもっと出来る子達なんです‼︎練習すれば、もっとできたはずなんです。もっと練習させてあげたかった。こんな形の卒業式になってしまい、本当に申し訳ございません!」と泣き崩れ、つられるように周りの親もすすり泣き、みたいな。
正直私は、ちょっと引いたよね。
いや、100Mは引いたよ、心の中で。
確かに突然の休校で小学校生活最後の楽しいはずの時間が奪われた事は本当に痛ましいし、怒りさえ覚えてしまう。政府がもっと、水際対策を徹底してさえいればとか、そもそも一番感染や重症化を確認されていない、小中高を一斉休校にする必要はあったのか、とか。とにかく、子ども達が今回の政府の政策の犠牲者なのは間違いないと思う。
でも、この卒業式のどこがそんなにいけなかったの?ぶっつけ本番の中みんな精一杯頑張ったじゃん。良かったよ?凄く。余計な(?)来賓の挨拶なんてものもなかったし(笑)
そもそもさ、卒業式にそんなに練習って要ります?自分の小学校時代を思い出しても、卒業式の練習って何だったんだろうって思う。
自分の言葉でもない言葉を言わされて、声の大きさとか、合ってないとか、お辞儀の角度やタイミングとか歩き方とか、散々やらされて、ひとりできないと連帯責任みたいな空気。
誰の為の卒業式なんだろってずっと思っていたよ。親や先生や在校生への感謝の言葉だって、本当に心からの言葉でなくては、虚しいものだと思う。それよりも、今回の式のように、間違ったり、詰まったりしながらも懸命に伝えようとしてくれた子ども達、練習できないままだけど、心を込めて歌ってくれた子ども達ひとりひとりの姿に涙が出たよ。
それに、心配しなくても子ども達の心はもう前に向いているよ。中学校生活を楽しみに、どの部活に入るかとか、どんな友達に出会えるかとか、どんな教科があるんだろうとか、先生はどんな人かなとか。希望に溢れているんだよ。
だから、先生、どうか子ども達を可愛そうな子にしないで、謝らないで。
そもそも練習が出来なかったのはあなたのせいじゃないよ。
謝られたら、それこそ子ども達が可愛そう。
精一杯頑張った子ども達を褒めてあげてください、と叫んでいた。心の中で。